何のためにものを作るのか?
ずっと昔、器は、水を汲むために作られた。
始めは葉っぱだったろう。後に土器、陶器、ガラスと改良された。
持ちやすく、壊れにくく、口当たりが良くなるように。
ずっと昔、印刷は、人に何かを伝えるために作られた。
始めは木版だったろう。後に活版印刷、写植、DTPと改良された。
作りやすく、より正確に、より色鮮やかに、そしてより沢山の人に伝えるために。
ずっと昔、家は、雨風をしのぎ、安心して暮らすために作られた。
始めは洞穴だったろう。後に竪穴式住居、組石造、木造、RC造、鉄骨造と改良された。
より快適で、清潔で、安全で、長持ちするように。
しかし、現代は「作ること」そのものが目的になってしまい、
「何のために作るのか」という根本的な意図は目的ではなくなっている。
今、僕たちは何のためにものを作っているだろうか。
友達が、自分でものをデザインした後に、
「作ってはみたものの、だから何なんやっちゅう話やねん」
と思ってしまうと言っていた。
そのデザインは素敵なんだ。アイデアも表現もレベルが高い。
でも、だから何なんだ。
面白いものができたが、これは、社会に必要なのか。
自分自身も、ずっとこの壁にぶつかっている。
デザインの目的と、作ったものの存在意義との間に溝ができてしまっているのだ。
器は、デザイナーがいなくても、職人さんがいれば作れる。
家は、大工さんがいれば、建築家がいなくても建てられる。
なぜそれをデザインする必要があったのか、という問いの答えを、
仕事をしていく中で、まだ形にできていないのだ。
「頼まれたから」というのは理由にはならない。
「デザインは嗜好品」と言っていられる時代ではない。
貴族の嗜好のためにあったデザインが、
アーツアンドクラフツ運動やインターナショナリズムによって
今は誰もが手に取り、求めることができるようになった。
ものづくりも分業化され、意匠を考える人と、実際に作る人が別れ、
デザイナーは印刷物やウェブ、建築を「作ること」ありきの存在となった。
誰も見たことのない斬新な表現、過去に例のない素材の使い方、
0.01ミリ単位で整えるこだわり、実写と見まがうほどの精巧なCG。
エンドユーザーは、社会は、本当にそれを求めているだろうか?
それらを否定しているわけではない。プロとして最大限のことをやるべきだと思う。
しかし、それらは本来ものを作る目的ではないはずだ。
もう一度、「何のために作るのか」という立脚点に戻ってみよう。





























