新たに作られる都市や建築はキレイすぎる、と常々思う。
いや、税金を使って建てられたものが本当に汚かったら問題だが、
健全すぎるというか、マジメすぎるというか。
街は、誰かが描いた計画通りにできていない。
長い時間を経て、多くの人々の営みが紡いできた骨格のうえに
世代ごとに新たな文化が上書きされ、さらにイレギュラーな出来事を積み重ねて、
街は少しずつ形作られていく。
都市は建物でできているのではなく、人と時間でできているのだ。
平和で景気のいい時代には商業活動が活発になり、人が集まる。
景気が悪くなると、ある人は耐え忍び、ある人は工夫をする。
若い経営者は家賃の安い穴場の区画を探して商売を始め、それが流行り出すと、
後を追う人々によってそこに新しいサブカルチャーが生まれたりもする。
再開発区域や埋立地の新都市は、全てが設計図通りに作られている。
誰かが頭の中で考えた範囲(あるいはそこに食い込もうとする利権)の中で完結している。
それぞれの場所では、特定の活動しか許されていないし、工夫の余地も無い。
時折、「ここではいろいろなことをしていいですよ」というスペースが設けられるが、
細かいルールと警備の目に縛られた多目的なスペースでは、したいことなど限られている。
宇都宮の中心市街地の一区画には、4年前に屋台横丁が作られた。
更地にプレハブの小奇麗な小屋が並べられ、通路には石畳。
ご丁寧にポケットパークまで設けられた健全な飲み屋街。
屋台の店主は与えられた区画からはみ出すことも許されない。
もっと手を加えられる余地が残っていれば、
店舗は生き残るために、より客を引き付けるべく工夫を重ね、
その結果が魅力的な場を生み出していくのだが。
ソフトと融合し、変化し続けるハードを作ることができないものだろうか。
いや、おそらくハードという枠にとらわれてしまっていては何も変わらないだろう。
ハードを作るという行為が、ソフトを作る行為とイコールになったとき、
建築を作らずに建築を創ることのできる建築家が現れたとき、
都市や建築デザインの新しいあり方も見えてくるような気がする。
yuyasuzuki













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